クラスメイトたちとレッスン
98年春から、フライブルク音大でのチェンバロレッスンが始まりました。当時のクラスメイトの国籍と人数は、日本2、スペイン2、ロシア1、アルゼンチン1、スイス1、ユーゴスラビア1、スロベニア1、ドイツ1、そして先生がアメリカ人、と実に様々でした。最初は英語でコミュニケーションをとる方が楽だった私ですが、ここではドイツ語が公用語なので、両方を使い分けることが、徐々にややこしくなっていきました。中には英語は話せないけれど、ドイツ語はできるという子もいて、ドイツ語を使わないわけにはいきません。気がつくと、私のドイツ語能力は英語力を上回っていて、半年くらい経った頃には会話は全てドイツ語になっていました。
↑これは学校のレッスン室。
ちょうど鍋島先生が、日本からいらした時の写真。
さてこのクラスメイト達、同じ年頃とはいえ、生まれ育った土地が違うだけあり、それぞれのバックグラウンドがまるで違いました。例えば、スイス、日本、スペインから来ている友達は経済的にも恵まれ、音楽教育もしっかり受けた上で来ていましたが、ロシアやユーゴといった国から来た友人たちは、母国が貧しく、また情勢もあまりよくなかったので「僕は帰る場所なんかない。国にチェンバロもないし、ドイツで音楽の仕事をみつける覚悟だ」と言っていました。当時、フライブルク国立音大は授業料がタダでしたし、ドイツの通貨もマルクで物価が安かったので、ユーロ圏に住んでいる子は、お金がなくてもビザさえあれば、とりあえずドイツに移り住んで勉強をすることができたのです。(ちなみに、当時の私の家賃は、ワンルーム約45平米で月650マルク=4万円弱くらい。他の大都市に比べれば安かった!)。彼らは、もちろん練習楽器なんて、家に持っていませんでした。私はなんて恵まれた国から来たんだろう、ということに気づき、また箱入り娘で育った、世間知らずな自分を自覚したものです。クラスメイトとは、すぐに打ち解けて、楽しい日々でした。
↑前列右がロバートヒル先生
ヨーロッパに出て、一つびっくりしたことがあります。
それは日本人以外の子たちは「思ったことは、恥ずかしいと思わずになんでも発言しちゃう」ということです。「僕は、今の演奏はあんまりいいと思わないな」とか「あのテンポは好きだ」とか、遠慮せずにポンポン言います。彼らはたとえ自分の演奏技術が低くても、確信を持って言います。「よく偉そうに、そんなこと言えるねー!」と最初は苦笑した私ですが、彼らは、子供の頃から自分の意見を言い慣れているようで、どうやらそれが普通のことみたいでした。でも、その方が人間性がよくわかるし、誰も気を悪くしませんでした。だから、何だかクラスはいつもいろんな意見が飛び交って、わいわいと賑やかだったのです。私はおとなしくしていると「何考えてるか、よくわからない日本人」になりそうだったので、徐々に自分を解放していくことを覚えました。不思議なことに、ドイツ語で話していると自分の考えを出すことが自然で楽になってきて、しかも音楽にも良い影響がでているような気がしました。きっと日本で自然に身に付けた『協調性』のようなものは、ヨーロッパでは全く必要なかったんですよね。クラスメイトたちの演奏を聴くと「日本では、かつて見たこともないような、強烈な個性を持った感じ」の人がいて、たまげたものでした。きっと、これはお国柄や文化が自然に滲み出ていたり、自己表現することにに慣れているためだったのでしょう。